汎用リーマンがいく

団塊ジュニア世代。都内勤務の自他共に認める悲しき社畜です。サラリーマンの哀愁、世相、子供のことなど何でも楽しく語ります。

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日本を多様性のある社会にするには理解より慣れ

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これだけグローバル化が進み、ネットで世界中がつながっている世の中ですので、よく多様性の尊重が大切と言われます。ましてや日本は移民の受け入れが不可避な状況になっているので、外国人を受けれるにあたって、かれらの文化、風習、考え方への理解を深めるのは大事ですよね。

先日ネット記事で読みましたが、日本に長年住んでいる北欧人(どこの国か忘れました。スミマセン)が、いつのまにか自分のアイデンティティがなくなっていた、と言っているのを見て、

「ああ、これが多様性なんだろうな」

と思いました。

よく、多様性の“理解”という言葉がありますが、“理解”って、「貴方と私の考え方は違う。でもちゃんと理解して受け入れるわ。」というニュアンスがありません?なんか好きじゃないんですよね。

うわべだけな感じがしませんか。

これが多様性の尊重だと言うのなら、そんなのまがい物ですよ。アメリカの人種差別対策みたい。欧米人のいかにも上から目線的な、アジア人、アフリカ人に対する“理解”に似ています。

例えば、ある朝、通勤しているときに、ご近所のムスリムの人が礼拝をしているところを見るとするじゃないですか。このときに「あ~ムスリムの人が礼拝している。毎日5回もやるなんて大変な宗教だな。いやぁ~俺には無理だな。」と思いながらも、そういう宗教があることを理解しているので、そのままやり過ごした、が“多様性の理解”です。

この状態だと、平時では問題ないのですが、何かのきっかけで軋轢が生じた際に、一気にその違いによる不満が噴出するような感じがしませんか。

それはなぜなら多様性を“理解”しているだけで、その違和感については何ら解決していないからです。

僕は、多様性の尊重とは、“理解”ではなく“慣れ”じゃないかと思っています。

先ほどの北欧人がいい例ですが、他の文化と接しているうちに、自分の祖国・民族・文化のアイデンティティが薄まっていき、「別に気にならないや」という状態になっていくのが理想に思えます。

ムスリムの例で言えば、通勤している人が、礼拝しているムスリムを見ても、“何も気に留めない状態”が理想でしょう。

異文化の人が互いにその境地に立つことができれば、軋轢なんて起きないと思うのです。“無関心”ではないですよ。“慣れ”です。

日本や韓国など、未だに純血主義の国は多様性が最も苦手分野ですよね。普段から同質な人とだけ接しているものですから、異質なものに対してどうしてもシャイになってしまいます。アメリカだって多民族国家のように思えますが、片田舎では、白人しかいない地域、黒人しかいない地域なんてごまんとあります。

結局、異文化の土地に住んでみるのが一番効果的だと思います。旅行や出張じゃないですよ。住むのです。

異質なものに対して、最初は驚き、恐れ、違和感を感じるかもしれませんが、

そのうち慣れます 笑。

そういう経験を積み重ねるほど、だんだん異質なモノへの抵抗感がマヒしていき、最後にはどうでもよくなっていくように思えます。

まあ、みんながみんな海外に住むことは現実的ではありません。他の手段で“感覚をマヒさせられる”方法があればいいのですが・・・。

最近、テレビでやっていましたが、外国人研修施設建設に反対して説明会で文句を言いまくっている近隣住民の人を見ました。こんなことを言っていました。

「治安が心配で・・・」

「子供が心配」

「地価が下がる」

確かに心配なのは理解しますが、何か・・・情けなくなります・・・。僕だけでしょうか。

ではまた。今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。



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