自他共に認める「適当リーマン」の私ですが、こんな私でも、しがない中間管理職として仕事でいろいろと辛いこともあります。心身ともに疲れ果てたときには、「自分よりも辛い人はなんぼでもいる!」と具体的に知り合いの顔を頭に浮かべることによって、「まだまだやれる」と自己暗示をかけて、自分の精神の健康を保つことがあります。ただ、よくよく考えると、ストレスから逃げるためとは言え、この「自分より下がいるから大丈夫」的発想は、間違いなく「差別的」な考えなのだと思います。自分自身ではフラットな人間だと思っていますが、「差別的」発想は誰でも容易に陥る可能性があるのだと気づきました。
もう少し掘り下げると、この「自分より下がいる」と認識することで、おそらく自分の「誇り(プライド)」を一生懸命保っているのだと思います。人間って自尊心を持つことで、日常を生きていける。江戸時代の身分制度はそのような人の心理を利用したもののようにも思えますし、考えてみれば、世界中の人種差別、男女差別、富の格差などあらゆる差別は、人の「誇り」が根っ子にあると感じます。
先日、ドイツのサッカー代表選手が人種差別問題から代表を引退するという記事がありました。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180723-00044411-sdigestw-socc
この話は移民問題もからんでおり非常にデリケートなのですが、ここで、この選手が「家族の教え」として大切にしている矜持をご紹介したいと思います。
「多くのひとがそうであるように、僕にもひとつ以上の国に先祖がいる。僕はドイツで生まれ育ったけど、家族のルーツはしっかりとトルコに根付いているんだ。だから僕にはふたつのハートがある。ひとつはドイツ人として、もうひとつはトルコ人として。子どもの頃、よく母にこう教えられていた。自分がどこから来たのかを忘れてはいけないし、リスペクトしなければいけないとね。今日までずっと大事にしてきた教えだ」
島国の日本とは違い、欧州は多くの国が地続きなので、日本とは比べ物にならない複雑な人種問題がたくさんあります。ですので、日本人の私に、この手の移民問題を理解するのはとても難しいところではあるのですが、やはり気になるには、この部分です。
「自分がどこから来たのかを忘れてはいけないし、リスペクトしなければいけないとね。」
やはり「誇り」なんです。この場合は、「自分はトルコからきた」というルーツが「誇り」になっているのです。もちろん先ほどの僕の例と違って、このことが即「誰かを下にみている」わけではありません。しかし、仮にこれが人種問題だとすれば、ドイツ人はドイツ人で「自分はドイツ人だ」というルーツに「誇り」を持っているでしょうし、同じ人種というテーブルで、強い「誇り」を持った異なる人々がいれば、普通に考えて、そりゃ色々軋轢を生むと思うんです。
考えてみてほしいのですが、今の「国家」の形が出来たのは人類の歴史からしたら「つい最近」ですし、今の「人種」に分かれたのも、そんな昔のことではありません。そして地球の歴史からすれば、人類の歴史なんて「一瞬」にもならないですし、宇宙の歴史からしたら、地球なんて塵にもならない存在。
こう考えると、大抵の「誇り」なんて、
どうでもよくないですか???
もちろん「歴史」を軽んじているわけではありません。重んじすぎていませんか?ということです。
おそらくですが、一部の超大金持ちや軍事関係者を除き、「みんな仲良くした方がいい」と考えている人がほとんどだと思うのです。であれば、常に「世界のみんなが仲良くなる」ためにはどうれすればいいか、という視点で物事を考えればいいハズなのですが、なぜそれができないのでしょうね。
私は、やはり「誇り」や「自尊心」の存在が気になります。これらは生きるために非常に重要な「エネルギー源」であるとともに、人を「人とは違う」と区別させる「差別のもと」なのではないでしょうか。
自尊心なくては人は生きていけない、のだとすると、差別をなくすのは無理かもしれません。人間の進化の限界でしょうか。
そうでないと信じていますが。。。
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