冒頭のイラストは「反省」なのですが、皆さん美達大和さん著の「死刑絶対肯定論」を読んだことはありますか?この著者自身、殺人犯で無期懲役囚なのですが、無期囚や死刑囚の刑務所での実態を赤裸々に描いている本です。この中で、とても驚愕だったのが、「ほとんどの殺人犯は反省しない」という事実です。
「あんなところにいるからだ」(だから殺された)
「騒ぐなって言ったのに」(騒いだお前が悪い)
「お前(殺された人)のせいで無期懲役だ。俺の人生どうしてくれる。」
こんな思考回路なのです。倫理も道徳もない連中です。やはり、ある一定割合でこのように大事なものが欠落した人間が発生するのだと思います。考えても仕方なくて、こういう人がいるんだと理解するしかありません。こんな反省しない連中は、社会の害になるだけなので、速攻で死刑にでもしてしまえ、となりそうなものですが、ご存知のとおり、世界的(欧米を指すことが多い)にみれば、「死刑廃止」の流れなんですよね。欧州では、ほとんどの国が死刑を廃止しています。アメリカでも製薬会社が死刑用の薬の提供を拒むなど、死刑廃止の流れになりつつあるそうです。
欧米については、やはり「キリスト教」の影響が大きいようです。
「博愛」、「許容」、「平等」の哲学
神から与えられた人権を侵すのは間違い
罪ある人間が人間を裁いていいのか
このようなキリスト教の教えから、欧州では、「人権思想」が発達しました。そこから死刑廃止論が出てきたのですが、以下がその理由になります。
基本的人権の観点から国家が人の命を奪うのはおかしい
冤罪の可能性が排除しきれないから
死刑は残虐だから
テロが起きた時に犯人をすぐ射殺しても、なぜこのような議論が起きないのかツッコミたいところもありますが、それはさておき、以上のような理由が一般的です。
一方、被害者遺族に移りますが、例えば自分の子供が残虐な方法で殺されたとき、犯人を絶対同じように苦しめて殺したいと思う親が圧倒的に多いと思います。僕なんかは、万が一そんなことがあったら、絶対自分で復讐することを考えます。しかも場合によっては、その犯人を殺すのではなく、その犯人が一番苦しむ手段を選びます。例えば、その犯人が子供を溺愛していたのならば、犯人に実況中継しながらその子供を殺めるなど、一番効果的な方法を選びます。子供を殺めることに若干の抵抗はありますが、正義は我にありです。
その犯人が僕の子供を殺さなければ、犯人の子供も殺されずに済んだのです。
結果責任は全て犯人が負うべきものです。ちょっと熱くなって申し訳ありませんでしたが、被害者感情というのは、それぐらいの苛烈なのだと思います。もし自分の子供が。。。と想像するだけで、犯人に対する強烈な殺意が湧いてきます(まだ見ぬ犯人なのに)。
ところで、日本の他殺による死者数がどれぐらいいるかご存知でしょうか。2016年で289人です。日本の人口を1億3千万人として、被害者になる確率は、
0.0002%です!
ということは、「被害者遺族」になる確率も極めて低いわけです。殺人の多い国では多少は上がりますが、先進国では誤差範囲です。つまり、だいたいの先進国においては、被害者遺族になる可能性は極めて低いわけです。
一見、欧州の方が「人権意識」が高いがゆえに死刑廃止が進んでおり、“進んでいる”と思われがちです。つまり死刑のある日本が野蛮。人権派弁護士とか言いそう。
しかし、EUを離脱したイギリスにおいて、EU離脱に賛成した有権者の過半数が「死刑制度復活」を望んでいることからも分かるとおり、
欧州って、大好きな“人権”で頭でっかちになっているだけで、犯人の死刑を望む少数の被害者遺族感情を汲み取ってないだけ
なのではないか、と思い始めています。そう考えると、被害者遺族感情が考慮され、ちゃんと死刑も行われる日本の方が、まだ「人間が運営している国家」という感じがします。欧州は「大脳新皮質が運営している国家」みたいな感じがします。少なくとも、死刑廃止=より高い次元の国家、という考え方はおかしい。日本は盲目的に、欧米=先進的と思っているところがあるので、仕方ないですが。。。
加害者に寄り添うのと、被害者遺族に寄り添うのは、どっちが社会正義でしょうか?
ではまた。今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。
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